幻の達成感

Date2026/06/25

なんだか忙しいのに手ごたえがないなと、ふと感じるときがある。
今年の3月にもそんなことがあって、それは自分で仕事を抱え込みすぎていたからだった。
それは他人を頼ることで多少解消することができた。
けれど、またまた忙しくなって、ある程度人に頼っていながらも忙しいし達成感があまりない。

これは表面的なことを解決するだけじゃいけなくて、自分の根本に何か原因があるような気がする。

そもそもなぜ仕事が忙しくなるのか。
それは、仕事を抱えすぎるからである。
ではなぜ仕事を抱えすぎているのか?
仕事が遅いわけではない。むしろ、AI活用を一番やっている自分はかなりペースが速い方だと思っている。
しかし仕事は終わらないし、空き時間に別の仕事を差し込まれて、スイッチングコストが大変なことになって疲れ果てている。

これはつまるところ、私が余裕があるようにふるまいすぎているんだと思う。
じゃあなぜそう振舞おうとしているのか。それは仕事に目的意識がないからだ。
何か他に学びたいことがあるなら、合間に新しい技術の吸収をするためにうまく時間を管理するし、そのフィードバックが仕事に生かされて達成感が得られるはずだ。
しかし、今の私はとにかく仕事が忙しくなって、降りかかったタスクをこなすこと事が目的になっている。
だからこそ次のタスクを求め、仕事を増やし、忙しさですべてを忘れようとしている。
そして忙しさがなくなったときに空腹感でまた仕事を求める。
もはや仕事をして何かを得たいのではなく、仕事をすることこそが目的になっている。

もちろん仕事から学べることはある。最近はビジネスについて勉強する機会もあったし、新しい技術をいくつか知ることができた。
けれど、それで十分だと思っているかというと、今こうして疑問になって思い返している時点で、何かが違っているのだと思う。
根源的な欲求として、新しいことを知るというのは嬉しいことではある。でもこれは、SNSで新しいニュースを見たときの快楽と、何が違うのだろうか?

そもそも、いつも私は自分の仕事がAIにとってかわられることを望んでいる。
目的は自動化、省力化、スピードアップ。
自分が作っているコードも、早くAIが品質を担保してやってくれないかなと思っているし、本能的にやってしまうようなきれいなコードというのも、別に趣味でやっているわけではない。
だからこそ、そういうことについては多く学ぼうとしているし、学びを実用化しているケースは最も多い。
もし自分のやりたいと思っていることならば、それを消そうとはしないはずだ。ならば、全部やりたくないことで、それを自動化しようとしているのならば、私のやりたいこととはいったい何なのだろうか?

私は、私の仕事がなくなってほしいと思っていて、けれど私の仕事は評価してほしいと思っていて、昇給もされたいと思っている。
だけど、私は私の仕事をどんどんAIに置き換えていって、私は私の仕事をどんどんしなくなっていって、やりたくないと思っている。
私は努力の過程を見てほしいし、成果を見てほしいとも思っている。けれど、それを評価する人はどこにもいなくて、私がやった仕事もAIが全部とってかわった仕事も、全部同じ評価になっている。

私は技術者に評価されたいのかと言えば、別に同業者に友達もいなくて、中身を評価されたいと思ったことはない。なぜかというと、AIに任せっきりだから。評価されても私が書いたコードではないのだ。
コードを評価されなくても、過程を評価してもらいたいのかもしれない。要件定義、業務をいくら知っているか、ビジネスモデルは何であるか。
でもそれは、別にやりたいことだとは思っていない。やりたくないことだから、せめて評価されたい。せめてお金になってもらわないと困る。それくらいのことをやっている。

私の根源的な欲求は何なのか、この前ChatGPTとはなしてみたところ、自分の表現をなんらかの形で表すことがしたいのだと示唆された。
何かをして、すごい!と思われるようなことが好きだと思うし、それが自分でも納得がいく形、他人を喜ばせるような形になっているのならば、それが良いと思っている。
その一方で、私に必要なのはそういった欲求を満たすのとは別に、生きていくためにお金を稼がなくてはならないといった面もある。
全ての欲求は一つの手段によって達成すべきではないということも気付かされたのもあった。
だから、私の好きなことが、人生のすべてを豊かにしてくれるものである必要はなくて、それらをする時間をなるべく多くするための支流の役割として、色々なものを組み合わせていく必要がある事を知った。
そう考えてみると、その支流の何か一つとして、今の仕事が組み合わさっていったら嬉しいとは思う。
もしそうではないなら、自分の力で、その時間をそうなるように仕向けないといけないとは思っている。

私の今置かれている状況は、どんどん視野が狭くなっていっているということだ。
やりたいことというのは自分の意志でエネルギーを使っていく必要があるのに、やらなくてはいけないことというのは他人の意志であり、他人の意志というのは自分も他人も勝手なものだから、やってあげたから評価されるとか、とりあえず評価しておこうだとか、都合よく評価できてとても楽なのだ。
とても楽だからこそ、うまくいかない時こそそれに縋ってしまう。
うまくいかない中でも、とりあえず頑張っているからえらいと、単に自分のエネルギーを使い果たしたことのサンクコストとして何かを得たはずだという風に解釈してしまう。
でもよく考えてみると、全然そうじゃない。私は自分の時間を売ってお金を得ている。欲求をばらしていくとそれしかないはずなのに、全ての意味をそこに載せて、あたかも素晴らしいことであるかのように、考えようとしている。
世間がそうだから、身近な評価者がそうだから、自分でおかしいと思っても、他人に軸を委ねたほうが不安がないから、そうやって捻じ曲げている。
何が言いたいかって、求められてない仕事は求められてないし、私が空虚な評価のためにやったことは空虚な評価しか得られないってことだ。
「君はおそらく頑張っているようだね。たぶんすごいと思う。けれど、給与には反映できないね。想像に過ぎないのだから」

私は何のために頑張っているのか。それは、本当に毎日考えないといけない。もし何も変えなかったら、あと40年はこの生活が続くのだから。
それが当然とみんな言いながらも、それは嫌だなとみんな思っている。怖いから口に出せないだけで、心の底ではみんなやりたくないと思っているのに、それが集団の見えない力で社会という概念に押し込められている。
それこそ、私がやっていることをそのまま使うべきだ。うまく省力化し、自動化し、そして私は私の時間を確保するのだ。